こんにちは、ハクサンフウロです。
みなさん、新田義貞という人物はご存じでしょうか?鎌倉時代後半から南北朝期にかけて活躍した武将です。上野国新田荘(現在の群馬県太田市)に生まれ、鎌倉幕府を滅ぼした立役者の一人です。しかしせっかく苦労して打ち立てた建武新政期においては政治の駆け引きがからっきしでライバルの足利尊氏に差をつけられ、また足利尊氏との対立が激しくなって以降は南朝勢力を軍事面から支えましたが、劣勢を挽回することはできませんでした。
湊川の戦いで南朝が敗北し、南朝が劣勢となる中、後醍醐天皇は足利尊氏との和睦を志向し、これを受け入れられない新田勢は、後醍醐天皇の皇子である恒良親王、尊良親王を擁した義貞は北陸へ向かいます。
流動的な政治情勢の中で義貞は犠牲だけを強いられ、後醍醐天皇への忠誠は揺らいでいたのでしょうね。一説には北陸・越前を中心に独自の勢力圏を打ち立てようとしていたとか。
しかしながら、延元3年/建武5年(1338年)7月7日、北朝と対峙する中、越前国藤島の地で、ついに戦死します。義貞の首級は京に送られますが、戦死の際に着用していた兜は泥田の中に埋もれたままとなったのです・・・。
田んぼの中からお宝発見!
それから300年後の江戸時代、この地を耕していた農民が兜を偶然発見、お殿様である松平光通公に献上します。見分の結果、新田義貞の兜であるとされ、越前松平家が所持しました。また、兜が発見された地には石碑が建てられ、いつしか「新田塚」と呼ばれるようになりました。
明治維新で南朝再評価、義貞にも光が!
明治維新後、明治天皇は武家政権から実権を取り戻した建武新政を評価したことから、南朝に尽くした人物を祀る神社が建てられました。福井の地には兜の発見された新田塚に新田義貞を祀る「藤島神社」が建てられ、松平家が所持していた兜も同社に奉納されました。
藤島神社は何度かの遷座(移動)により現在は福井市毛矢の足羽山に鎮座しています。
メモ
新田塚 JR福井駅から京福バス大学病院新田塚線「新田塚」下車(約15分)
藤島神社 JR福井駅から京福バス清水グリーンライン「赤十字病院経由」「不動山口」で下車