福井藩初代藩主・結城秀康は天正2年(1574年)、徳川家康の2男として生まれました。家康はこの子の出生を喜ばず、家臣の本多重次らが養育しました。これを不憫に思った兄の信康が家康と引き合わせ、親子対面がかないました。その後、小牧・長久手の戦いにおける秀吉との和睦の条件として秀吉のもとに養子として出され、元服。秀吉の「秀」と家康の「康」をもらい羽柴秀康となのりました。兄の信康も信長と家康から一字ずつもらっていますが、秀康も天下人両名の名から一字ずつを受け継いでいます。その後、秀吉に実子鶴松が生まれたことから秀康は他家に養子に出されることになり、結城晴朝の養子となり、下総結城10万1,000石を継ぐこととなりました。

関東から越前へ

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いにおいて、会津上杉の抑えとして宇都宮で景勝に睨みを効かせます。関ヶ原の戦いの論功行賞で越前一国68万石に加増されます。こうして結城氏の家臣団も越前に移住することとなります。

結城秀康の越前入国に従った家臣団は北庄に屋敷を与えられました。結城家と関係の深い寺社や、商工業者も移住しています。結城家の家臣で秀康に従って移住した家には多賀谷家、山川家、水谷(みずのや)家、岩上家の四家が大身でした。もともと岩上家を除く3家は結城家と同格と言ってよい立場でしたが、天下人秀吉・関東の主家康の係累である秀康が結城家の継承者となることで家臣化していきました。秀康の越前移封時には多賀谷三経が3万2000石、山川朝貞が1万7000石と万石以上の石高となっています。秀康もこれらの家にはそれなりの経緯をもって処遇したということでしょう。

結城氏から越前松平家へ

結城秀康の越前移封の後、結城氏は徳川支配体制の下、親藩越前松平家として遇されることになります。秀康は34歳でこの世を去りますが、子の忠直の時代には徳川一門として松平を名乗ったものと考えられます。結城の家は秀康の5男直基が継承しますが、直基も松平姓にその後復しています。直基の子孫前橋松平家では結城氏の継承者としての意識がなくなったわけではなく、祭祀を継承し、家紋も三頭右巴と秀康に由来する太閤桐を使用しました。

参考文献

「関東の名族 結城氏と福井」 福井市立郷土歴史博物館 令和4年7月23日発行