福井市と茨城県結城市の友好都市提携が2022年に20周年を迎えました。これは鎌倉時代以来の関東の名族・結城氏を福井藩祖・秀康公が養子として入った縁によるものです。秀康公が越前國の国主となり入部したときには結城氏の家臣団や寺院もともに越前国に移住してきました。

結城氏についておさらい

そもそも結城氏は俵藤太(たわらのとうた)藤原秀郷を祖先にもつ下野(栃木県)の豪族・小山政光の3男・朝光が源頼朝から結城の地を与えられたことに始まります。そういえば、結城朝光には源頼朝ご落胤説がありますね。朝光の「朝」の字は頼朝からの偏諱ですが、小山家の通字「政」は結城家では使用していません。ご落胤説は別にして頼朝公への尊敬・追慕の念が強かったのですね。

結城氏は鎌倉時代を通じて幕府の要職を占めましたが、南北朝の騒乱で分裂して勢いが衰えます。南北朝期には結城宗広が後醍醐天皇の令旨に応じて挙兵。宗広の子親光は後醍醐天皇の寵臣4人を示す「三木一草」※の一人にまでなります。

※三木一草:ほうき/名和伯耆守(ほうきのかみ)長年、くすのき/楠木正成、ゆうき/結城宗広、ちぐさ/千種忠顕のこと。名前や官職にき、くさが関係していることから後醍醐天皇の寵臣をまとめてこう呼んだ。

その後本拠地関東でも結城家の本家筋にあたる小山家が衰退するとともにその地位に並ぶようになり、関東公方を支える有力大名となります。しかし、結城合戦で幕府に敗れ結城家は一時滅亡の憂き目を見ます。その後結城成朝が再興を果たしますが、家臣の統制力は弱まり家勢は衰えます。

しかしながら戦国時代に入っても結城政朝が多賀谷氏や山川氏を抑え勢いを取り戻します。そのあとを継いだ政勝も北条氏と関係を保ちつつ領土拡大に成功します。また、分国法「結城氏新法度」を制定し家中の統制を図っています。政勝の養子晴朝の時代にあった小田原征伐により関東の覇者が北条から徳川に変わり、また上方が秀吉の天下となった情勢を見て家名維持のため、後継に徳川家康の次男、秀康を迎えることを決断します。

こうして関東の名族結城家と徳川家康の次男であった秀康公の縁が結ばれました。こうしてみると、結城一族の優秀さが伝わります。鎌倉時代、南北朝、室町時代を通じて幾度か勢威は衰えますが復活を果たしてきています。