今回は、現在福井県立歴史博物館で開催中の特別展「鬼柴田」勝家の実像~について紹介します。

織田家の下、越前國を統治した柴田勝家は福井県民にとって親近感のある人物です。今回、福井県立歴史博物館で柴田勝家をテーマにした特別展が開催されています。勇猛な武将のイメージで語られることの多い柴田勝家ですが、この特別展では、政治家・行政担当者としての手腕にも注目しています。

柴田勝家~武勇と統治に長けた忠義の臣~

本特別展は3部構成となっています。

第一部:越前入部までの動向  第二部:越前支配の実態  第三部:信長死後の動向

第一部:越前入部までの動向

まずは柴田勝家の肖像画の展示から。自害直前の姿を描かせたと伝わる返り血を浴びていることを表現しているこの絵からは武将としての勇猛さが伝わってきます。また柴田勝家が使用したと伝わる無銘の太刀も展示されています。

柴田勝家が京都で発給した文書、また柴田勝家が領した近江蒲生郡で発給した文書も展示されています。勝家が行政官としても活動していたことがわかります。

第二部:越前支配の実態

天正3年(1575年)、織田信長は、越前國の統治を家臣に任せました。柴田勝家に越前國中八郡の支配をまかせ前田利家らを与力として附属させました。こちらの展示でも勝家の発給した行政文書が展示されています。

第三部:信長死後の動向

本能寺の変が起きたとき、勝家は魚津にて上杉勢と対峙しており、変報を聞きすぐに北庄に撤退しています。魚津から北庄までおおよそ176km。6月6日に変報に接した勝家は9日には北庄に帰着。この距離を3日で移動しました。ちなみに、秀吉の中国大返しは備前から姫路まで約77km。備前から176km地点は大阪府豊中市あたりです。そうです、勝家も決して行動が緩慢だったわけでもありませんし、秀吉の移動が驚愕するほど早かったわけでもないといえます。

とはいえ、秀吉勢は6月12日には豊中を超えた高槻あたりに進出しています。備中高松を立ったのが6月5日ですから1週間たっていますが想定戦場である山崎までは10km程度です。一方、勝家は北庄から山崎まで196kmを残していました。これでは秀吉勢を超える移動は難しかったといえるでしょう。秀吉が光秀を討ったことで信長死後の織田家内での立ち位置は秀吉が圧倒的に有利な立場となりました。

展示ではその後、賤ケ岳合戦図屏風も展示されています。この戦いで柴田勝家に勝利した秀吉が織田家の主導権を完全に握ったということになるでしょう。

この特別展では柴田勝家の政治家・行政官としての一面に光を当てています。また本能寺の変後の勝家の難しい立場も客観的に示されています。

勝家の北庄での最後は潔く、また部下の裏切りを許すなど武将としての度量は大きかったといえると思います。秀吉に敗北したためにその実力と比べてマイナス評価をされているのではないでしょうか。

特別展「鬼柴田」勝家の実像~は令和5年9月3日(土)まで福井県立歴史博物館で開催されています。ぜひ足を運んでみてはいかがでしょうか。

投稿者

ハクサンフウロ

越前國住 歴史好きサラリーマンです。

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