現在の福井県南越前町河野地区(河野浦)は江戸時代から明治にかけて、北前船の拠点として繁栄しました。その中心となったのが河野浦出身の北前船船主たちです。以前の記事で石川県加賀市の橋立地区の北前船船主の館を紹介しましたが、そこから南下して福井県に至り、敦賀の北に位置するのが河野地区です。

管理人には長く疑問がありました。敦賀は日本海側と京畿をつなぐ交通の要所ですので繁栄したのは理解できるのですが、敦賀にごく近い河野浦になぜかくも有力な北前船主が成立したのか?今回初めて河野地区を訪れて、また敦賀と武生(現越前市)の間の地理的状況を踏まえて自分なりの答えが出せました。

北前船主 右近家とは?

右近家は当地河野浦の金相寺の分家として船1艘から始まり江戸時代中期には、敦賀とその北方をつなぐ日本海航路の荷役船として長く活動していたものと考えられています。その後9代目右近権左衛門が北前船主として大きく飛躍しました。8代目から3艘の船と1,600両(1両5万円として、8,000万円)の利益規模の商いを受け継いだ9代目は積極的にリスクを取りに行き10年後には11艘の持ち船で12,000両(同6億円)の利益の商いに育てました。

明治に活躍した10代目権左衛門は17艘の船を擁する規模に商いを育てる一方、北前航路の衰退にあわせて、蒸気船を導入して近代海運業に転換するとともに倉庫業、海上保険業、炭鉱経営や農場経営にも乗り出し経営の多角化に努めました。現在の損保ジャパンのルーツの一つである日本海上保険株式会社の設立に関わり、社長も務めました。

北前船主 右近家の建物

現在公開されている右近家の建物は日本建築の屋敷と山手にある洋館です。屋敷は江戸期天保年間に建てられた構えを基本に明治34年に建て替えられたものとのこと。上方風の切妻造瓦葺二階建です。その建築材料は北前船によって産地から運ばれてきました。背後の山に建てられた西洋館は昭和10年ごろの建築とのこと。

屋敷では北前船の商い、船に関する資料や、近代化後の保険業経営期の右近家の資料等が展示されています。加賀橋立の北前船主の館と同様に囲炉裏が玄関からすぐにあるのが印象的です。また茶室と庭園はしっかりと整備され、お世話をされている方の苦労がしのばれます。福井の北前船主の館らしく敷石に笏谷石がふんだんに使われています。また、蝦夷と上方を結んだ北前船主らしくアイヌの衣装なども展示されていました。また公開の安全を祈願した船を描いた絵馬、船絵馬も多く展示されています。北前船がいかに危険であったか、人々の真摯な祈りが伝わってきます。

西洋館は屋敷の裏手の高台に建てられています。昭和10年に建てられた西洋館は贅を凝らしたつくりとなっています。また何より高台から見る日本海が美しいです。明治の河野浦では当然生活の足として小舟やもちろん北前船がこの目の前を行き来していたのでしょう。ちょうど管理人が訪れた際にフェリーが敦賀に入ろうとしていました。まさに敦賀の目の前なんだなあ!とGoogleマップと対比しつつ一人納得していました。西洋館はそのモダンなつくりがもちろん目を引きますが、特に右近家のトレードマークである一膳箸を描いた西洋船がはめ込まれたステンドグラスが印象的でした。

軍神廣瀬中佐と福井丸

西洋館から少し歩いたところに山荘展示館があります。こちらでは右近家の持ち船であった「福井丸」に関する展示がありました。福井丸は日露戦争においてロシア海軍の根拠地であった旅順の港を閉塞するために港の狭隘部に沈められた船のうちの一隻です。この旅順港閉塞のため船を沈める作戦の指揮を執り福井丸にて戦死したのが、廣瀬武夫中佐です。戦前は軍神廣瀬中佐として神格化されていました。この展示も閉塞作戦に関する情報を詳しく知ることができる貴重な展示です。

河野の海は美しい・・・

河野浦のような小さい漁村でなぜ右近家のような有力な北前船主が誕生したのか?今回訪れて思うのは敦賀とその北の今庄や河野浦の間は巨大な山塊が横たわり、陸路が貧弱であることが原因かと思われます。敦賀の湊とその北部は海運の方がより効率的であった時代が長かったため敦賀とそのすぐ北の地を結ぶ近距離海運が発展、さらに、三国湊やその北を結ぶ意欲的な船主が成長していった・・・ということではないでしょうか。

なお、河野浦近辺には甲楽城や糠等の素晴らしい海水浴場も近くにあります。海のレジャーを楽しむとともに右近家の館を訪ねてみるのも面白いかもしれません。

メモ

北前船主の館・右近家

福井県南条郡南越前町河野2-15

石川・福井方面からは北陸自動車道南条スマートICから国道305号線を西に

関西・中京方面からは北陸自動車道敦賀ICから国道8号線を北上、しおかぜラインから国道305号へ